MtGのコラムからハースストーンを見るー無作為はともだちー
やあ、ドリチン・ルターだよ。
ゴールデンウィークで舞い上がりすぎてもう給料が底を尽きかけてるよ。障害者なので。
ウンゴロ環境、レジェンドが1万人くらい居たらしいね!
まるでレジェンドランカーのバーゲンセールだぜ…………
むしろランク1とかのほうがプレシャス感あって良かったまであるな
やっぱりブン回ったもん勝ち環境というか、先にウンコ投げれたほうが勝つみたいな環境で分かりやすいのがこういう結果を生んだのかな、、
あとレノが居なくなってストレス無くランク回せるってのが一因だよね。ミッドが増えてコントロールも減ったし。
もう2度と帰ってくんなよケツアゴヒールゲイ。おまえはミスチャレと仲良く遊んでてな。
まあそれはさておいて、
昨日偶然見つけたMtG(マジック:ザ・ギャザリング)のコラムがけっこうおもしろくて、しかもハースストーンにもかなり通じる部分があるなーって思ったからちょっと紹介してみたいとおもう。
まず初めに言っておくと、僕自身MtGのことを1ミリも知らないし、カードに触ったことすらない知ったか野郎だってことを頭においてほしい。
適当に憶測でMtGのことを語る場面もあると思うけどなんの根拠もないデタラメだからこいつイミフなことしか言ってねぇな~~って思いながら見てね。
さて、ハースストーンプレイヤーに多く知られているようにハースストーンはMtGの影響をとても多く受けているゲームで、例えばスタンダード制や闘技場はMtG由来のものだし、そもそもカードそのもののデザインをパク…踏襲しているようなものもかなり多い。
例えば新拡張大魔境ウンゴロで登場したメイジのクエスト《ウェイゲートの開門》で手に入る《時間湾曲》はMtGの《Time warp》をほぼそのまま拝借したようなデザインになっている(らしい)
MtG…イラストがあまりにも硬派すぎる………
誰この魏軍総大将の呉慶みたいな人。
シャドバだったら巨乳の女の子が二人鏡合わせになってるし、ハースストーンだったら気持ちの悪い生物がなんらかのことをしてる絵が描かれてるだろうな…
まあそもそもほとんどのTCGはMtGのパクリとまで言われるほどのカードゲームで、ハースストーンのここはコレ!あそこはコレのパクリ!とか言い出してるときりがないくらいすごいゲームだってことなんだよね。シャドバがハースストーンをパクったようにハースもMtGをパクっている!!みたいな激臭議論をする気は無いし、そういう類の話がしたければ2ちゃんかしたらば行ってみてね
まあ、そんなカードゲームの古典とまで言ってもいいMtGだけど、公式が2009年に載せたコラム「無作為はともだち」を読んでいきたいと思う。けっこう長い記事だし、要点だけ軽く要約していくけど、引用はたぶん要約とかしちゃホントはダメだよね(卒論感覚)
べつにブログで金儲けしてるわけじゃないから多めに見てね
全文はこれ↓
このコラムではMtGで当時新しく実装された「続唱」のシステムの無作為性、つまりランダム性について触れられていて、そこからカードゲームにおける無作為性の話に展開されていく。続唱はハースストーンでいうジョーストみたいなものなのかな、ちょっとよくわからないけどつまりランダム性が絡んでくるものだってこと。
無作為
名詞 作為の無いこと。意図的に手を加えることなく、偶然に任せること。ランダム。
無作為とは、予想できないことだ。ではこの前提に基づいて話を続けるとするが、それだけではちょっとゲームについて話をするには物足りない。ゲームにおいては、無作為であるとは、「操作が加えられなければ」予想できないこと、とさせてもらおう。
「操作が加えられなければ」というのはなぜかというと、多くのゲーム、特にマジックにおいては、プレイヤーはゲームの要素を操作することが認められているからである。プレイヤーが無作為の部分を手に取り、そしてより無作為でない状態、あるいは完全に無作為でない状態にすることができるということだ。この能力によって、少なくとも今回の議論の範囲では、無作為の質が失われることはない。これが、今回のコラムのキモと言ってもいい部分なのである。
MtGにもハースストーンと同じくランダム性が絡むゲーム性の一面がある。それはコイントスだったりサイコロだったりするわけだけど、それはやはりゲームをよりエキサイトなモノにするためのギミックとして。
MtGはわからないけど、実際ハースストーンはこのランダム性(RNG)でかなり劇的な場面が生まれたりするからやっぱりハースストーンがDTCGとして成功している要因になってると思う。
・ コイン投げ
さて、ここまで見てきたとおり、ゲームには未知の部分が必要である。そして無作為性はその未知を作り出してくれる。それを前提に、無作為性がゲームにどのような影響を与えているか検討していくとしよう。
1.驚きを作り出す。
驚きとはすなわち面白さであるということは既に言った通りだが、それだけでなくより技術的なものでもある。未知は、完全には予想しきれないことを作り出してくれる。それによってゲームはよりドラマティックに、そしてエキサイティングになるのだ。
2.ゲームを変える。
何でも充分にこなせる環境は、いずれ飽きが来るものである。無作為性はそこにいろいろな変化をもたらしてくれる。変化があるからこそ繰り返そうと思えるのだ。ネズミがレバーを押せばエサが出てくるという古典的な実験において、レバーを押したときにエサが出てこないこともあるというほうが、より頻繁にレバーを操作するのだそうだ。ゲームにおいても同じく、変化はモチベーションを生み出してくれるものだ。
3.反応を呼び起こす。
無作為であることの問題点は、技術の高低と関係がなくなるということ、言い換えると、すべてを制御できていれば良いプレイヤーが有利になるということである。しかし、これは正しくない。ゲームにおいて、無作為に起こる出来事はプレイヤーに複数の行動を強制する。まず、何が起こったか、そしてそれがそのゲームにどう影響を与えるかを認識しなければならなくなる。次に、その新しい変数をどう利用してゲームに勝つかを推論しなければならなくなる。さらに、その新しい変数を利用するために他のリソースを最大限に活用しなければならなくなる。これらはどれも非常に複雑なもので、経験豊富なプレイヤーでなければこなすことができない類のものだ。不可知の変数がゲームに投入されればされるほどに、プレイヤーの技量がそれを活かす機会が増えると言ってもいい。
反応するための能力は、多様な技術に支えられているのだ。
無作為性によって、ゲームはより面白く、何度も楽しめるようになり、そして技術が試されるようになる。すばらしいことだ。
1.の驚きを作り出すというのは本当その通りで、コンゴウインコがキングクラッシュを持ってきてトンデモないところからリーサルになったりすると「ハースストーンサイコーーー!!!!」ってなるし逆にウルトラサウルスみたいな肥溜めの中に浸かった生理用ナプキンみたいなクソミニオンを持ってきたりする。まあどちらであれ驚きはしてるよね(?)
あと、ハースストーンのようなDTCGは、MtGみたいな実際の紙を使ってるTCGが出来ないような、「カードプールからランダムにカードを手札に加える」ことが出来る。例えばそれは《怪盗紳士》や《コンゴウインコ》、《思念奪取》みたいなカードで、ハースストーンにはこういうデジタルな点を生かした無作為性があるのがMtGと大きく違うところだと感じる。
このシステムのおかげで構築で入らないようなカードも対戦で見ることが出来たり、しかもそれが思わぬ活躍をしたりするから面白いンだよな……
2.で書いてあるような、ゲームの変化の重要性は、変化に富むこういうギミックがあるから十分に担保されてると言っていいと思う。
3.はつまり無作為性を考慮したプレイングがよりプレイヤーに刺激を与えるみたいな話だと思うんだけど、正直僕ではまだまだ意識出来てない部分で、例えば《ストーンヒルの守護者》で《始祖ドレイク》がピックされたかも知れないから、8ターン目は横に並べ過ぎないようにしよう、とか、毎試合そこまで考えることが出来たら確かにもっと勝率にも影響してくるのかなーとは思う。まあ自分は出来てないけど、ランダム性がプレイヤーに良い刺激をもたらすっていう点においてはまさしくその通りかも。
・無作為の欠点
そこから出てくる疑問が、なぜプレイヤーは無作為をそれほど低く評価しているのかということだ。その答えは、無作為性のせいで不幸な出来事が起こることがあるからである。
1.繰り返させられる。
モノポリーで刑務所にいるとき。バックギャモンでコマがはじき出されているとき。《野生のワーム/Wild Wurm》[TMP]をプレイしようとしているとき。
無作為性のせいで、しようとしていた行動ができずに何度も繰り返すはめになる。上で、同じ事を繰り返させるには変化が重要だと言ったが、無作為性はその逆をつくこともあるのだ。同じ事をただひたすらに繰り返させられることは、けして楽しいことではない。
2.いらいらさせられる。
初心者にとって、何かに繰り返して挑戦し、達成できないということはいらいらするものである。無作為性はそれにさらにがっかり感を上乗せしてしまう。制御不能な因子のせいで達成できないのでは、自分が無力だと感じてしまうのだ。無作為性のせいで失敗したとなると、ただ失敗する以上にいやな感じになるものだ。
3.ゲームが停滞する。
失敗するだけでなく、無作為性のせいでゲームが停滞することもある。これの例はMMO(多人数型オンラインゲーム)だろう。クエストを達成するためにドロップ品を必要とする場合、そのドロップ品が出るか出ないかが無作為であれば、プレイ中にそのドロップ品を一度も手にできないことさえありうる。無作為性の下では何も起こることが保証されていないのだ。
4.番狂わせが起こる。
ゲームデザイナーとしては、それは悪いことだとは思わない。だが、より弱いプレイヤーに負けることは多くのゲーマーにとって苦痛に他ならない。勝利への鍵を偶然手に入れる喜びより、そのことによる意気阻喪の方が少しだけ大きいのだ。
このように、無作為性によってゲームはより面白くて繰り返し遊べて技量を試すものになる一方で、無作為性によってゲームはよりつまらなくて繰り返し遊べなくて良いプレイヤーが負けることのあるものになる。一体どういうことだろう?
それこそがこの話の心臓部だ。無作為性というものは、ゲームデザインにおいて薬にも毒にもなる劇物なのだ。
次にこのコラムでは無作為性がもたらす欠点について触れられているんだけど(間の話はかなり省いたけど)1.に関してはハースストーンだとあんまり当てはまるような例は自分は思いつかなくて、○○が出るまで繰り返しプレイするみたいなのはなさそう?
でも例えばテンポメイジを使用しているとき、場に《フレイムウェイカー》が居るときの《魔力の矢》をプレイしたときに、かなりの確率で処理できるであろうミニオンがウェイカーがノーコンすぎて生き残っちゃったりすると、分の良いじゃんけんをしているぶん「クソくだらねーーこのゲーム」っておもったりする。無作為性はいい結果と悪い結果のムラが生まれてしまうのが面白いんだけど、逆に欠点といえるかもしれない。
2.に関してはハースストーンプレイヤーなら全員が理解してることだからとやかく言う必要ないでしょ(?)
《怪盗紳士》で《生贄の契約》盗られてジャラクサスになったとたん死んだり、《乱闘》で1体しかいない相手のミニオンが残ったり、《禁じられし創造》でティリオンが出てきたりとこのまま書き続けたらあと5万字くらい書けちゃいそうだからこの辺でやめとくけど、こっちが真面目に負け筋を消してるときにメチャクチャなことをされて負けたりするとマジでこのゲーム作ったベンブロードとかいうサイコパスを法的に訴えたくなるよな、、
3.のゲームが停滞するって部分は自分が実は一番の無作為性の欠点だと思っていて、これってまさしくnerf前の《希望の終焉ヨグ=サロン》が引き起こしてた現象だと思う。
旧神環境では主にテンポメイジ、ヨグドルイド、トークンドルイドあたりにヨグサロンが入ってたんだけど、最終的にヨグサロンでガチャ引かれて負けることとかかなりの確率であったし、しかも相手はほぼ負け確の時しかヨグを出さないわけだから負けてもしゃーないくらいの感覚で出してくるのが最強にイライラしたよね。
じゃあもう最初から10マナでヨグサロンだして、運がよかったら勝ちでいいやん、これまでのゲームに意味あった?みたいな試合が多すぎて、全く生産性のない環境だったなーと今思い返してもそう思う。もうnerfされたから今は10マナ払ってガチャ引きたいんだーとしか思わないけど。まさしく無作為性がもたらす停滞だった。
4.もまあヨグサロンに通じる部分はあるんあけど、勝ち確を運だけでひっくり返されるとこっちからすると喪失感がすごいんだよね。技術が運で補填される場面はあってもいいと思うけど、やっぱりその塩梅は大事になってくる。
・まとめ
ここまで無作為性についての良さと欠点についてみてきたけど、箇条書きされている点をよく見てみたら、利点と欠点が実はどちらも紙一重であるということに気づく。やっぱりそういう面でも、コラムの最後に書かれている「無作為性というものは薬にもなるし毒にもなる劇薬」という点に繋がっていくんだろうね。
ハースストーンにおいて《希望の終焉ヨグ=サロン》全盛期だった旧神環境はまさしく無作為性が毒になっていた環境だったと思うし、ゲームとして運の比率を間違えたいい例だと思う。逆にウンゴロ環境で新たに実装された「適応」システムはとても良い程度の無作為で、ハースストーンのスタッフも、もしかしたらMtGのこのような考えのもとで運営しているのかなとひそかに妄想してる。
ただ、じゃあ無作為性を全く排するとそれはすごく味気の無いゲームになってしまうし、ハースストーンで遊んでいるプレイヤーはそんなこと誰も求めてないだろうから、やっぱり大事なのは無作為性の塩梅なんだと思う。
これからもハースストーンで遊んでいくうえで、その土台となっているMtGのこういう考え方は、ハースストーンで遊ぶ僕らも知っていかなくてはいけない部分の一つなのかなーと感じる。
これまで全くMtGについて知らないクセに長々と講釈を垂れていったけど、また面白そうなコラムがあったらぜひとも読んでいってみたいと思ってるからその時はまたよろしくおねがいします、、
先月レジェンド到達したミッドレンジハンターの記事も暇だったら読んでみてね
おわり