なぜおっぱいは乳輪が見えなければ良いのだろう
かれこれ四半世紀ほど人間の男性をしてるけど未だにおっぱいは乳輪が見えなければオッケーという考え方のカラクリがわからないでいる
— 西巣鴨ラファエル (@namieLei) 2019年10月1日
きっかけはSNSでフォローしてるグラドルのツイートだった。
その女の子曰く、「よく写真見て乳輪ちょっと見えてるって言ってくるおじさんがいるけど、グラビアの撮影って絶対にニップレスを貼ってるから絶対見えないよ」という旨のツイートをしていた。
それ自体はグラドルが言ってるんだからそうだと思うし、気持ち悪りぃおじさんに乳輪見えてますよって毎度言われるのは相当気の毒やなって思うんだけど(まあその気持ち悪りぃおじさん達にでけぇチチ見せておまんま食わせて貰ってるんですけどね)、そのツイートを見て僕はふと思った。
なんでおっぱいは乳輪が見えなければいいんだろう?
乳輪っていうか突先である。
冷静に考えたら全然意味が分からない話過ぎはしないか?なぜおっぱいの9割を占める乳房は見えても良いのに残り1割の乳首が見えてはいけないのか?
法律の関係で雑誌に載せてはいけないだとか路上で乳首を出すと公共良俗に反するからダメみたいな、法曹的な問題を挙げているのでは無い。それはどこか女性も「いや、乳首さえ見えなければ大丈夫だ」と潜在的に思っているその観念的な根底が不思議なのだ。
フランスのモードには胸の谷間を見せることで女性的な美しさを強調させるファッションがある。
エステティックサロン・ファッションなどの各業界においては、胸の谷間を含む胸元から首元、肩や後背部にかけてを、フランス語でデコルテ(décolleté(e)) と呼ぶ。デコルテを露出・強調することで、女性の美しさを最大限に引き出せるとして注目されている。
また、女性の礼服として知られるローブ・デコルテもローブ・ドレス類の中でもデコルテを強調する形状をしており、イブニングドレスの代表的なスタイルとなっている。このため、ローブ・デコルテのことを単に「デコルテ」と呼称する場合もある。
日本ではまだ珍しく、このような格好をして屋外にいたりすると下品な女性とみられることが多い。
日本において下品とされるのは賀茂真淵的な「たおやめぶり」としての日本古来から持ついわゆる「女性らしさ」のステレオタイプが起因しているのかも知れない。
しかし、女性的を表現するのであれば、谷間だけで無く、乳首さえ見せても良いはずである。しかし、ジェンダーレスを謳うラディカリストを除いて多くの女性達は胸部を露わにしても、その全容は秘されたままである。
ここに乳房と乳首に隠された大いなる叡智のヴェールがあったのだ。
つまるところ私は、乳房における乳首は、モードにおける「デコルテ」に見られるような、自らの延長としてまとう衣服を最大限に削ぎ落としつつもその本質を形而上の世界に落とし込む術なのだと思う。
おっぱいを見せて乳首を見せないのは、女性たちが世間の風雪に縛られ、自らの意思無く抱いていたゆるやかな世間の取り決めなどではなく、自らを聖母へと想起させる紺色のガウンだったのだ!
アフリカの未開部族の女性達は胸部を覆う衣服も無くその胸は乳首と共に雄弁とも言えるべきほどに放り出されている。しかしその胸に我々ヘテロセクシャルの男性は──個人の性的趣向はあるにしろ──惹かれる事は無い。
ここに乳首の秘匿されるべき魔術がある。
さらに身近な例を挙げるなら、アダルトビデオを介して見る乳首がそうだ。それは、私達が日常生活で触れる女性の乳房や、週刊誌を通じて見る女性アイドルの水着写真とは全く階層が異なった話なのである。アダルトビデオにて感受する乳房はもちろん乳首も見ることが出来るが、それはもはや生物学的な女性の肉体としての乳首であり、“俗なるもの”に堕した乳房なのだ。
近年科学技術は日々進歩し、大量消費社会の中で我々の生活にはインターネットが欠かせないものとなっている。その中においてポルノサイトなどの発展から私達は近代以前よりも安易に女性の乳首を見ることが出来るようになってしまった。この乳首が氾濫し、飽食した現代社会において、ベンヤミン的「アウラ」が女性の乳房から消失したと考えることも出来るだろう。
しかし、我々が日々目の当たりにしている女性の乳首が秘匿された乳房はその中においても輝きが色褪せる事は無い。女性にとって──男性にとってでもあるが──、乳首はモナリザの黄金比よりも美しく、田舎町の清流よりも澄み渡り、地平線まで続く大海原よりも広大なものなのだ。それは終わりなき大銀河への旅とも言っていい。この“聖なるもの”は想起するものによっていくつのも変化を遂げる。それはメルロ=ポンティ的〈肉〉としての乳房からの捲土重来の陣太鼓の殷々たることか!
え?いや結局どういうこと?
過去の活字オナニー